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2001年7月14日生血液型:O型星座:かに座身長:161cm>>プロフィールへ
コメント(1063)
一生懸命活動していく久保ちゃんを全力で応援します!
1人の力は小さいけれど、たくさん集まれば大きな力になる!
これから久保さんの地元応援を目にする度に、
3.11のことを忘れないよう胸に刻みます。
仙台も、東北も、大好きです。よく行きますし、
旅先を検討するときは必ず候補になります。
いまは自粛で、よく行ける状態ではないけど。
状態がよくなったら、久保さんがおすすめして
くれたところへ行きますよ。
地元発信、楽しみにしていますね。
いつもくぼしに元気もらっているよ!
本当にありがとう。同じ宮城県民として応援しています。
久保さんと同じく、未だに地震を知らせる携帯のアラームが鳴ると恐いという気持ちを持ちます。でもそれは正しい感情だと思ってます。アラームを「備える」ことの重要さを改めて認識させてくれるツールと思わないと教訓を活かせないですから、いつも咄嗟のことですがそのように気持ちを変換する努力をしなければと思ってます。自分の正直な気持ちを大切にしてください。
風化させないための努力、悲しんでいる人の力になれる努力など、口では簡単に言えますが、それぞれの感情に寄り添うことはとても難しいことです。ただ、だから、求められる必要な努力なんだと思います。
仕事を通して私もこの先努力し続けなければなりません。今日一つの節目を迎えましたが、それは通過点です。求められるものを過重に思わず、無理なく途絶えることの無い努力を、お互いこの先も続けていきましょう。行動できた自分をしっかり労ってくださいね。
僕も当時、被災地へ向かいました。母方の祖父母及びいとこの家族と連絡がついて、食糧や灯油を届ける為でした。連絡がついたのは地震発生から10日前後経ってからでした。その間、時々泣いていた母親の姿をよく憶えています。
当時の被災地風景を未だ鮮明に思い出せます。見慣れた公園や店、かつて連れていってもらった漁港、何度か足をはこんだ大船渡駅。見慣れた思い出の地、その全てが破壊されていました。街中には小型漁船や作業用の船舶が、しまい忘れた玩具のように転がり、小川の一画を埋め尽くすかの如く、泥まみれでひしゃげた乗用車が溢れていました。一軒家等は軒並み流され、コンクリート製の土台だけが残っていました。「帰る場所が分からない」、それを防ぐため、それぞれゆかりの品や物を玄関先に置き、家の場所を示している世帯を多く見ました。道路を構成するコンクリートが、ジグソーパズルのピースみたいに砕け散っていました。波の侵入を防ぐ為設けられていた厚さ40〜50cmはある鉄製の防護扉が、根本から外れ、港の出入口から数m奥に折れ曲がった状態で転がっていました。まるで特撮ドラマの撮影セットにあるかのような、とても形容しにくい想いを抱きました。
なりより憶えているのは、建物跡に描かれていた赤字の❌印。自衛隊や諸外国が派遣してくれた救助隊の隊員が、「生存者」か「要救助者なし」を知らせる為に書いたものだそうです。それがあちこちで見受けられました。「言葉が出ない」、純粋にそう思ったのは未だ、この時だけです。
当時、僕はこう考えていました。「皆んな無事みたいだが、家はダメだろう」と。深夜、現地に到着し、いとこ家族・祖父母と再会しました。両者の身は勿論、家も無事でした。翌朝、家を出るといとこ家族の家より低い土地の家屋はほぼ全滅していました。祖父母の家も同様でした。聞けば津波が来た際、ちょうど両者の家が倒壊を免れたギリギリのラインだったそうです。神様の悪戯か神の救いか、それを初めて実感した瞬間でした。
大学のとある講義で僕は上記の内容を話しました。正義感等の崇高な目的はありません。あの時、あの場を直に見てきた者の1人として当然の行為だと今でも思っています。「伝えなければならない」ではなく、「伝えることができる」。そう信じています。
たとえ伝えられなくとも、自分だけでも忘れずに憶えていれば、それで充分です。これからも忘れずに生きていきましょう。なれば自然と伝わっていきます。
時間は変わらず過ぎてくね。
時間が解決する事、しない事、時間経つと解ってくる事、新たな事件も起きるし、生きるって大変。
でも、希望も同じだけあるよね。
外から観てるだけやけど、久保ちゃんは自分に制約を枷過ぎてる様に思ってました。
BLOGOSを読んで、地震がもたらしたのはそういう楔もあるのか、と思わされました。
大丈夫って言ったって、考えてしまうのが久保ちゃんなんだろうな。なんか、解ったような事書いてるけど(笑) BLOGOSの記事、良すぎました。読めて良かった。
皆、貴方の味方ですよ
私は当時幼稚園の年少でした。関東なので大きな被害はあまりなくて年少の頃の記憶ですけど妹がまだミルクを飲んでいたくらい小さくて、ミルクを作るための水がお店とかにも売ってなくて母と年長の姉が大変そうだったので何事かと衝撃が大きかったので鮮明に覚えています。
父の仕事の関係で小学生になってから何度か東北地方を訪れさせて頂く機会があったのですが、訪れる度に様々なところで街の復旧が進んでいたり、この震災を風化させないように新たな時代へと語り継いでいる方々を見て、私も何かできることをしたいと毎回強く思いました。
災害は自然に起こりうることだから誰にもどうしようもないけれど、少しでも被害を少なくするために備えたり、その後の風評被害を無くすことなどは人間にでもできることだと思います。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
そして、10年経った今もなお故郷に帰れないという方々、東北地方の復興に尽力されている方々のためにこんなちっぽけな私でもできることを探したいと思います。
10年前の時刻に、仕事の手を止めて黙祷しました。
私は、久保ちゃんのおかげで「東北」という土地に興味を持ちました。あなたの存在と発信する想いは、大きな困難を今も乗り越え前向きに進もうとしている東北の皆さんにとってとても大きな力になると思います。
私も微力ながら、久保ちゃんの事と同様に東北の復興を応援しています。
でもあのアラームの音が恐怖の音ではなく、危険を知らせてくれる、命を守るための音だと理解して、周囲の状況を確認しながら行出来るように心掛けようと思っています。
現在、地域の消防団に入り団長を務めています。自分だけで出来る防災もありますが、地域の防災に少しでも役に立てるように色々やっていこうと思います。
ブログを読んで涙があふれてきました。
自分も仕事中にあの揺れを感じました。
あの日の事を忘れてはいけないし風化させてもいけない
自分達、大人に何が出来るのか本当に考えさせられます。
去年は行けなかった東北へコロナ化ではありますが今年は行ってみます。
私も久保ちゃんと同い年で福島県出身です。今も避難先での生活が続いています。
久保ちゃんが東北を想ってくれていることが様々な活動を通して伝わってきてすごく嬉しいです!いつもありがとう。
これからも乃木坂を、久保ちゃんをずっとずっと応援しています!お身体にはご自愛ください。今年1年もいいことばかりが続きますように...!大好きです( •̤ᴗ•̤ )♡
俺もあの日のことは未だに鮮明に覚えています。
被災した久保ちゃんや皆さんは言葉では言いあらわせられない気持ちだと思います。
このことを風化させない、後世に伝えることも大切ですが、被災した久保ちゃんや皆さんに寄り添える、支えることも大切だと感じます。
久保ちゃんが伝えることは大切なことではありますが無理をせずこのことや乃木坂での活動を頑張ってほしいです!
しおちゃんの気持ち、想いがとても伝わりました。
ありがとう。 大好きです。
震災当時は津波とか地震とか無縁なところに住んでいるので、ぜひお話を聞かせてください。
そして、乃木坂46のアイドルとして頑張ってください。
自分は小学4年生で授業中に、2歳年下の妹も帰りの会の最中に被災しました。
校庭に避難した後すぐに雪が降り始めて寒い中保護者の迎えを待ち続けたことを覚えています。
余震が続く中、僕達兄妹の迎えに来てくれたのは同居している祖父でした。
帰宅した家の中は割れた食器やガラスが散乱、断水、停電も発生しており、不安な夜を過ごしました。
1ヶ月後、親戚が住む宮城・南三陸を訪ねると、津波の爪痕がはっきりと残っていてその景色は今も忘れられません。
あれから10年たち、町のかさ上げが行われ復興が進んでいます。
1日でも早く元の生活に戻れることを祈っています。
ありがとう話してくれて
自分もこのblogを知り合いに見せるね
俺はこの時幼稚園の年長組でした
このブログが未来に繋がることを祈ってます
ご冥福をお祈りいたします
自分も当時は小さいながらも地震の怖さを知りました。
気づけばもう10年。
何時になっても、あの時を忘れることはありません。
久保ちゃん、ブログ更新ありがとう。
いつも応援してます!
久保ちゃんがこのブログで書いていた使命を果たしつつ、メンバー達と笑顔で楽しく活動できるよう願っております。
3.11からの10年が長くも短くも感じます
今年もこの日にブログを更新してくれて、ありがとう。
このブログを読み、
僕に出来ることは何かと考えました。
何より大切なのは、この日を忘れないこと。
それが何もできない僕にとって、
一番の善いことなのではないかと、そう考えました。
また、10年前のこの日から、
国民全体の地震や防災に対する意識が大きく高まったり、
いままで唱えられていた避難に関する常識が変わったりと、
学ぶことも少なくはなかったと思います。
地震や津波の影響は大きく、
未だに完全な復興には至ってはいませんが、
少しずつ被災地の方々は前に進んでいます。
僕もこの日のことを忘れず、
今日も変わらず
日々を送ることが出来ているという
感謝を忘れずに
これからも生き続けていきたいと思います。
たくさんのエールが届いていますように。
がんばれー 東北!
東京ではあるけど、地震起きた翌日から学校は休校になったし、修了式卒業式も中止でした。
高校生になってから、初めて東北(岩手、宮城)に行って震災の被害を目の当たりにして、言葉で言い表わせない衝撃を受けたと同時に東北の人たちの温かさを知って、東北に行った事が進路を決めるきっかけになりました!
受験だコロナだで3年くらい行けてないけど、色々落ち着いたら、また友達と宮城に行きたいと思います!!
史緒里ちゃんのその想いが、こうしてみんなに伝染して、きっと届きます。
いつもありがとう。
ブログ更新とメールありがとう。
地震や津波で亡くなられた方達に、
ご冥福とお祈りを申し上げます。
震災から10年
10年目にコロナ禍になっているなんて想像すらしていなかったけど明日には何が起こるかわからないし、当たり前の生活が当たり前ではないことをあらためて心に刻むことが大切だよね。
東日本大震災は遠い過去に何度も起こっていてその度に先人は未来に向けて「ここまで津波がきた」という碑石を残したりしていたのに人々は平和な日常の中でそんな記憶は忘れてしまい低い場所に生活圏を広げていった…
やっぱり記憶を風化させてはいけないんだよね。
経験した人たちは伝えていくべきだと思う。
遠い未来にまた同じような地震が起きた時、誰一人として犠牲者を出さないために。
先日の「BLOGOS」のインタビューも読ませていただきました。
色々な葛藤があったのですね。
震災の事、風化させない!語り繋いでいく!と言うのが大切なんだと思いました。
久保ちゃんだからこそ出来る事があるんじゃないかな?
東北を離れ東京で頑張る久保ちゃんを見て元気を貰ってる人も居ます。
アイドルという立場から震災について語り、少しでも多くの人がその事を考える機会が生まれたら良いよね。
これからも東北を応援して下さい。俺も応援します。
そして少しでも早く復興出来るますように。
当時私は年長でした。はじめての大きな地震が東日本大震災でした。震源地からさほど近くない場所に住んでいた私でも鮮明に覚えています。あの時はじめて、地震がこういうものなのだと知りました。幸い家にいたのでまだ良かったですが、体験しないと分からないあの恐怖感。東北の被災した方々とは比にならないと感じます。ですが同じ日本です。同じ人間です。助け合いがどれほど大切なのか、東日本大震災で教えてくれた気がします。
久保ちゃんのブログを読んで鳥肌が立ちました。
本当に本当に久保ちゃんの想いが日本、そして世界へと広がりますように。
そして復興がさらに進みますように。
震災当時の事を語る資格がないと思っている事、東京に出てきたことを負い目に思ってる事を知った上で言わせてください。
久保ちゃん、生きててくれてありがとう。
活動を通して生きる勇気をくれてありがとう。
あなたのおかげでいろんな感情や考えなど、自分にないものを教えてもらっています。ありがとう。
これからも久保ちゃんの声をたくさん聴かせてください。
いつか久保ちゃんの育った宮城を訪れてみたいと思います。
これからも久保ちゃんらしくいろんなことを伝えていってください。
このブログが東北の方の心の支えになる事を願っています。
たくさんの方への感謝、今こうして生活ができていることへの感謝など、当たり前の事を当たり前と思わないようにしなければならないと改めて感じることができました。
もうと言っていいのか分かりませんが10年も経ちますね。
自分は忘れっぽい性格ですがあの日の記憶は今でも忘れません。
当時の自分は中学1年生でした。
親はどちらも仕事だったので確か余ったみんなで帰った記憶があります。
こうしてブログで書いてくれることで救われる人もいると思います。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。
あの日を過ごした自分たちが未来に語り継がなければ行けません。
きっとこの想いだけは届くと思います。
10年前…長いようで短いこの期間で今もなお爪痕が残ってるとこもあるけど、活気ある東北になってきてるのがとても嬉しいです。
震災から数年後に行った仙台で小学生達が募金してました。
こんな小さい子が辛いだろうにこんなに頑張ってるんだ…って胸を打たれたのを鮮明に覚えてます
久保ちゃんがきっかけで東北好きになりました。東北のために力になってる久保史緒里さんをこれからもずっと応援してます。
今を大切に生きようと思います
ブログ更新、ありがとうございます。
震災から10年経ちましたね。
つらい過去を綴って頂き、ありがとうございます。
書くのもかなりの勇気が必要だったと思いますし、書いている最中も葛藤があったと思います。
久保ちゃんのおかげで、10年前の東北がどのような状況だったのか、また一つ知ることが出来ました。
本当に、ありがとうございます。
このブログはもちろん、久保ちゃんの体験は、全部良い未来に繋がっていると信じています。
だから、これからも、今まで通り、久保ちゃんらしく頑張って下さいね。
僕も、久保ちゃんや東北の皆さんに負けないように頑張ります。
笑顔の久保ちゃんが大好きです。
これからもお互いに頑張って生きましょう。
あの日起きた出来事は絶対忘れてはいけないと思います。
当時6歳でした。当時ぼくは大阪にいました。大阪でも揺れていたのを覚えています。テレビをつけたら津波のことでした。
本当に忘れてはいけないと思います。
絶対に忘れてはいけない、後世に伝えていかなければならない。
しーちゃんのブログを読んで、改めてそう思いました。
きっとこのブログ、そしてしーちゃんのこの活動が未来につながっていくと思います。
東日本大震災の日。
小学校3年生、心細かったでしょうね。
お父様と会えたのは一週間後・・・。
自分は東京でしたがそれでも周囲はパニックでした。
冷たい風の中、会社から自宅まで歩いて帰宅しました。
そして、史緒里さんが乃木坂として活動している意味、それは日本国中、いや世界に幸せの意味を伝えること。
普通の生活の中に、幸せがたくさんあるということ。
史緒里さんの経験が生きてくるはずですよ。
東日本大震災の当時の経験ブログ、ありがとうございます。
忘れてはならない・・・。
いつも本当にありがとうございます。
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